昭和五十六年三月十九日 朝の御理解
X御理解 第六十九節 「信心は容易いものぢゃが皆氏子からむつかしうする。三年、五年の信心ではまだ迷い易い。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで我心をまつれ、日は年月の始めぢゃによってその日その日のおかげを受けて行けば、立行かうが。容易う信心をするがよいぞ。」       


 何が信心は難しいもんだと云う事になるのだろう。信心が難しいという事になると世渡りも又難しい。お互が頂いておるなら仕事も難しい事になる。生きるという事はなかなかぢゃない難しいという事になる。私は信心が容易いもんだという事が分らせて頂いたら、仕事も容易いもんぢゃという事になると思うんですけどね。
 信心は容易いもんぢゃ氏子から難しゅうする。もう初めから信心とは難しいもんだと決めておる。なぜそんなに信心が難しいかと云うと、結局は我情があり我欲があるから、難しいんぢゃないでせうか。三年・五年の信心ではまだ迷い易い、十年と信心が続いたらと仰せられますから、十年間本気で我情我欲を取る事に精進させて頂いたら、信心は容易いだけぢゃない楽しいだけぢゃない、それこそ有難い勿体ない事になってくる、いよいよ信心がいわゆる血に肉になるのですね。長年例えば信心しとっても我情我欲があるから、信心は難しい事になるんですよ。
 だからね、なら信心とは結局我情我欲を取る事の為に、成る程三年・五年ぢゃなかなか出来るものではないけれども、その我情我欲を取る事に一生懸命なら、十年間稽古をさせて頂いたら、信心は容易いものという事になってくる。そういう信心をもって各自が頂いておるまあ天職とと申しますが、百姓するものは百姓・お商売をする者はお商売にいうならば、信心をもって合楽理念に基づいての商売が・百姓が出けるようになると、その百姓商売そのものもです、各々が頂いておる御用もそのままが信心であり、修行であり、一蓮托生に御用も信心も一つになってくる。
 そして容易いものという事になって、いよいよ生甲斐を感じながらの生き方が出ける。だから三年・五年では迷い易い、三年・五年の間には迷わねばならないような事が起きてくるですやはりね。これ程信心するのにというようなものが、おこってくるんですけれども、その迷いから覚め、その迷いが取りはずされるおかげを頂いて、これはまあだ信心が足りんのぢゃというような生き方で、いわゆるそこへんの所も合楽理念に基づいて稽古をさせて頂いとったら、十年経った所にはもうただ我が心を祀れという程しの心の状態が開けてくる。お互がね我情我欲の為に信心をするから難しい。おかげ頂いたの、頂かなかったのという事になる。信心とはいうならば信心であり、信ずる心であり、真心であり、神心である。そういう信心・真心・神心というのが過程を追うてです。十年間も信心を本気で、我情を取る事の為に我欲を取る事の為に精進させて貰う。
 まあ我情を取る我欲を取るとまあ云うと、まあちょっと難しいようにあります、私共もそう思うた。とても我情我欲なんか一生取れるもんぢゃないと思うた。所がなら合楽の久保山さんぢゃないけれども、本気で成り行きを大切にする、尊ばせて頂くという生き方を本気で身につけさせて頂く事に、精進させて頂いておったら、いつの間にか、我情が取れていきよる自分、我欲が取れていっておる自分がそこに、自分の助かりを発見したとこう云うておられる。
 だから我情我欲を取る事に精進するという事は、なら教えの一事でもよいから、それを本気で十年間行じ徹しぬいてみる事なんです。十年と続いたら我ながら我が心を祀れとおっしゃる事は、十年たったらこりぁ誰でもそういう信心させて頂けば、お徳が受けられるという事だと、そのお徳そのものを拝むのである。祀るのである。我情我欲を祀るのぢゃない。その辺の所がね、結局我情我欲で一生を終っていく人。信心のいわばそういう真髄に触れながらおかげを受けていく人。あるんです。その辺の所の見極めがついて信心の稽古をさせて頂くと、今日もどうぞ、今月・今日一心に頼め、おかげは和賀心にあると仰せられますから、その和賀心にならせて頂く事の為の精進がまあ、我情我欲を取る事に精進る事である。なら我情我欲を取る事に精進するという事はいうならば、天地とも間違いなくに交流する。直結しておる教えに取り組んで、いうなら天地日月の心と云われるようなね、天の心でもよい・地の心でもよい・日月の心でもよい、その事に本気で取り組んで一つ一つを自分のものにしてゆくという精進なんだ。我情我欲の為ぢゃないわけ。
 昨日のお月次祭のお説教にも申しましたように、人間本来もう生神の心というものは頂いておるんだと、だから何十年間の間に、我情がついてきた・我欲がついてきた、それを取り除いていくという事。そこを改まっていくという事、それがなかなか出けません、けれども、それをなら、教えを本気で行じさせて頂いておる中に我情も取れ・我欲も取れ、十年も経ったら我ながら我が心を祀る。十年も経ったら、御神徳の世界をかい間見る事が出ける。そのかい間見る我が心の中の神様、いうなら御神徳を受けて行く手立てを、我情我欲を充たす為の信心だから難しいのである。お仕事でもそうである。こりからこれまでの仕事をすりぁ、いくらになるといったようなのだから、骨が折れるのである。力のある者は力を一緒懸命に出す事が楽しい位ぢゃないだろうかと思う。力のない者が力仕事を一生懸命せんならんといったらじゅつないでせう。頭脳のある人は頭脳を一生懸命使うたら、もうそれこそあの学者が、年をとっても本を読むようなものと仰せられるようにです、楽しゅうなってくる・有難うなってくる。それを力を頭を我情我欲の為に使おうとするから難しいのである。我情我欲を取るという事は難しいとこう決めてしまはずに、もう早速今日からね、そのなら我情我欲を取る事の為には本気で教えの実践者になる事。教えの実践それが信心生活である。十年もたったらねいつの間にか垢が取れてくると、いわゆる人間本来のいわゆる生神の性根がこう光り輝いてくる。我情我欲があるから我情我欲で信心をするから、信心はむずかしいのぢゃないか、我情我欲を取る事の為に信心の稽古させて貰うならば、信心は容易いものであり・楽しいものであり、自分の心ん中に頂ける信心の力というか、光りを感じさせて頂くようになるのだから、楽しゅうなってくる。信心が楽しゅうなっていくような一つ修行に本気で取り組み度い。                                    どうぞ